人を知識やスキルを生み出す投資対象と捉える、人的資本の概念が注目を集めています。海外で、企業に人的資本に関する情報開示を求める動きが活発になっており、日本国内でも、政府が人的資本の情報開示についての指針をまとめました。
今や、企業にとって取り組むべきものとなっている「人的資本開示」について、その基礎知識から、人的資本開示の19項目など、最新動向をまとめました。
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そもそも人的資本とは?
人的資本とは、「人的」すなわち、人が持つ知識や能力等を何らかの付加価値を生み出す「資本」として捉える経済学の用語です。人的資本の投資は、個人が持つスキルや能力を伸ばし、結果として生産性の向上や成長につながるとされています。
企業での人的資本といえば、採用や育成、人事制度設計から、従業員エンゲージメント、ダイバーシティ&インクルージョン等、人にまつわるさまざまな分野を含みます。人的資本への投資は、個人の幸福度の向上や組織の競争力向上など、金額だけでは推し量れない、多くのメリットをもたらします。
人的資本と人的資源の違い
人事領域では、これまでは人的資源という考え方が主流でした。人的資源は、人を組織のリソース(資源)とみなし、より効率的に人が持つ能力を発揮できるよう、制度や環境等を整備するという考え方です。個人が持つ知識や能力は、資源であることから、組織のコストとして捉えられます。
人的資本と人的資源の大きな違いは、この「人」への捉え方です。人的資本は、人を投資対象と見なすため、効率を求めるオペレーション志向ではなく、既存の能力や知識を磨き効果を最大化するクリエーション志向が中心となります。
人的資本経営とは
人的資本経営とは、前述した人的資本の考えをもとに、人を投資対象として企業の持続的な価値向上につなげる経営をいいます。経営戦略のなかで、企業が解決するべき課題を明確にし、それに沿った人材戦略を行いながら、投資対利益率を最大限高めることを目指します。
少子高齢化や人生100年時代など、急激に変化する経営環境のなかで、中長期的に社会から求められる企業のあり方として、近年注目されています。
人的資本の情報開示が求められている理由
近年、企業に人的資本の情報開示を求める動きが活発になっています。こうした動きの背景には、無形資産価値の高まりと、ESG投資への関心の高まりがあります。
無形資産の価値の高まり
無形資産とは、特許権やブランドといった知的資本、多様なステークホルダーとの関係性といった社会資本を指すものです。社員の能力・経験、組織へのエンゲージメントといった人的資本は、無形資産に該当します。
企業の市場価値を構成する要素は、かつては株式や借入などの財務資本、建物・整備などの製造資本といった有形資本が主な割合を占めていました。しかし、近年では無形資本の割合が増加しており、なかでも人を投資対象とする人的資本は、投資対効果を高められるものとして注目を集めています。
ESG投資への関心の高まり
ESGとは、「Environment(環境)」「Social(社会)」「Governance(ガバナンス)」の頭文字をとった造語で、ESG投資は企業の利益という財務面だけではなく、社会課題や環境問題等に対する企業の取組を、投資の価値判断基準とするものです。
人的資本は、ESGでいう「Social(社会)」に該当します。近年、ESG投資の重要性が高まるにつれ、投資家は財務情報と同時に、企業の人的資本の情報をもとに投資先を判断しています。株式や決算などが好調であったとしても、人材育成や人材戦略など、人的資本の情報にネガティブな要素があれば、中長期的には企業成長のリスク要因と判断される恐れがあります。
人的資本の情報開示の動向
企業に人的資本の情報開示を求める動きは、欧州からはじまり米国に波及し、そして日本でもそれを追いかけるように情報開示の動向が活発になっています。以下に、国内外の動きを紹介します。
欧米の流れ
2018年12月に国際標準化機構(ISO)がISO30414を策定したことに基づき、欧州の一部企業で人的資本の情報開示がはじまりました。ISOは、国際的に通用する商取引のさまざまなルールを標準化・規格化しており、ISO30414は人的資本の情報開示に関する国際的なガイドラインとして位置づけられています。
ただし、ISO30414には適用義務はなく、人的資本を可視化する項目について、何を開示するかは基本的には企業にゆだねられています。
こうした欧州の動きに続くように、2020年8月、米国証券取引委員会(SEC)は、米国の上場企業に人的資本の情報開示を義務付けました。
欧米を追いかける日本の流れ
日本国内では、欧米での動向を追いかけるように、人的資本の情報開示の動きが活発化しています。2020年9月、経済産業省は『持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書』(通称:人材版伊藤レポート)を発表。これをきっかけに、人的資本経営に注目が集まりました。
人材版伊藤レポートでは、人的資本の情報開示について記載するとともに、日本の企業体質を踏まえたうえでの人的資本の高め方についてまとめており、企業が人的資本経営を考える上で欠かせない資料となっています。
また、2021年6月に東京証券取引所が「コーポレートガバナンス・コード」を改定。上場会社に求める人的資本の情報に関する項目が盛り込まれました。開示項目としては明示されなかったものの、「人的資本や知的財産への投資を適切に開示すべきこと」等が記されています。
人的資本開示の19項目とは
政府は2022年8月末、人的資本開示に関する開示指針を発表しました。『人的資本可視化指針』と題された指針では、前述の国際標準化機構(ISO)や米証券取引委員会(SEC)など、海外の指針を比較分析し、それを踏まえ企業に開示を推奨する項目を挙げています。
人的資本の開示項目は7分野19項目あり、指針自体は企業に開示義務などの効力はありません。しかしながら、金融庁は2023年度に有価証券報告書に一部の人的資本情報の記載を義務化すると発表しており、今後、企業にとって人的資本開示の重要度が高まると予測されます。
具体的な開示項目は、以下の通りです。
- 育成:リーダーシップ、育成、スキル/経験など。従業員一人当たりの研修時間や研修費用などの内容が想定
- エンゲージメント:従業員満足度
- 流動性:離職率、離職率、採用・離職コスト、人材確保・定着の取り組み例など
- ダイバーシティ:男女間の給与の差、育児休暇後の復職率・定着率、男女別育児休暇取得社員数など
- 健康・安全:労働災害の種類や発生件数、医療・ヘルスケアサービスの利用促進、ニアミス発生率など
- コンプライアンス・労働慣行:深刻な人権侵害の件数、苦情の件数、業務停止件数、差別事例の件数・対応措置など
参考:『人的資本可視化指針』|内閣官房
ISO30414とは
国際的な人的資本の情報開示に関するガイドラインであるISO30414の目的と内容についてもみてみましょう。
ISO30414の目的
ISO30414の目的は、組織が持つ人的資本の情報を、投資家やステークホルダーなど内外に開示することによって、企業の持続的な経営と成長を促す点にあります。
ガイドラインでは、企業の人的資本の状況を定量的かつ定性的に開示するよう指針を定めており、開示情報によって、その組織に人的資本がどれぐらい貢献しているのか、投資対効果を判断することが可能になります。また、人的資本を定量化することにより、組織への影響が可視化され、経営戦略に沿った人材戦略の見直しを行うことが可能になります。
ISO30414が指標とする「11領域」
ISO3041では、以下の11領域が開示項目として定められています。
人的資本の領域 | 概要 |
1.コンプライアンス、倫理 | ビジネス規範に対するコンプライアンスの測定指標 |
2.コスト | 人件費や採用コスト等 |
3.ダイバーシティ | 労働力とリーダーシップチームの特徴を示す指標 |
4.リーダーシップ | 従業員の管理職への信頼等の指標 |
5.組織文化 | エンゲージメント等従業員意識と従業員定着率の測定指標 |
6.健康、安全 | 勤務中の死亡者数など、労災等に関連する指標 |
7.生産性 | 人的資本の生産性と組織パフォーマンスに対する貢献をとらえる指標 |
8.採用、異動、離職 | 離職率や社内で補充されたポジションの割合など |
9.スキルと能力 | 人材開発と育成の総コスト、個々の人的資本の質と内容を示す指標 |
10.後継者計画 | 対象ポジションに対しどの程度承継候補者が育成されているかを示す指標 |
11.労働力 | 従業員数等の指標 |
人的資本の開示を行う手順
企業が人的資本開示を行う際、こうした項目をただ開示すればいいというわけではありません。企業価値の向上やステークホルダーへのアプローチにつなげるためには、しっかりと定量的に分析を行い、ストーリー性を持たせながら、戦略的に情報を開示する必要があります。
ここでは、人的資本の開示を行う手順について、これから本格的に取り組もうとしている企業と、すでに人的資本の情報開示を行っている企業とにわけて、押さえるべきポイントを解説します。
これから本格的に取り組む企業の場合
これから人的資本の開示に取り組もうとしている企業の場合、まずなにから手を付けるべきなのか、迷う点もあるでしょう。指針で示されている開示項目もけして少なくはないため、自社にとって開示するべき項目の選定、それに合わせたデータ収集と分析などの環境整備、戦略性をもったKPI設定と手順を追って進めることが重要です。
- 開示する項目の選定
- データ収集と開示サイクルの定着
- 戦略性をもったKPI設定
まず、開示する項目の選定では、「情報開示されていないことがリスクとなる」項目に目を向けましょう。たとえば、男性社員の育児休暇取得率や健康経営に関する取組などは、女性活躍推進指標や健康経営指標といった、人的資本開示以外の領域でも盛んに取り組まれています。また、人材育成や多様性といった項目は、採用でも重視される内容です。
こうした「守りの項目」と呼ばれるべき情報に対して、自社の状況を正確に把握しましょう。計測環境を整備するために、タレントマネジメントシステムなどのサーベイを利用するのも一つの方法です。
社内での人的資本情報を整理したのち、経営戦略と人材戦略を踏まえたKPI・目標を設定します。自社の将来ありたい姿をもとに目標を定めることで、情報開示にもストーリー性を持たせることができます。
情報開示で、自社の取り組みを社外に発信するとともに、社内の反応にも耳を傾けましょう。定期的なモニタリングを用いて、理想の姿と現状のギャップを把握し、施策へと活かすことができます。
情報開示が先行している企業の場合
すでに人的資本の情報開示が定着している企業では、上述の「守りの項目」だけでなく、「攻めの項目」についての開示を検討します。そして、投資家など社外からのフィードバックを施策に反映し、現場を巻き込みながら経営戦略とより連動した人材戦略の実現に活かしましょう。
- 攻めの項目での情報掲示
- 投資家からのフィードバックを施策に反映
- 事業部門といった現場を巻き込んだ取組の実施
攻めの項目とは、企業価値の向上に直結し、ステークホルダーからポジティブな評価を得るために必要なものを指します。攻めの項目は、人材育成やエンゲージメントなど、企業の人材戦略や経営課題によって重視するポイントが大きく異なるものです。ただ数値を開示するだけでなく、目標基準と企業の成長の関連性を意識し、企業が目指す将来の在り方やビジネスモデルとの連動が求められます。
また情報開示は、ステークホルダーとの対話の機会でもあります。投資家の反応を積極的に受け入れ、施策の改善に活かすことができます。また、経営戦略と連動した人材戦略の実現には、経営陣の主導のもと、人事部門・事業部門との協業が不可欠です。採用や育成、定着など、自社の課題を現場と共有し、定量的な情報収集・分析を繰り返し行いましょう。自社の人的資本の状態が可視化されることで、組織の方向性が明確になり、一体感をもって課題に取り組むことができます。
人的資本の開示例
最後に、人的資本の開示を行っている企業の事例をご紹介します。
第一生命ホールディングス株式会社
第一生命ホールディングスは、中期経営計画『Re-connect 2023』において、well-beingへの貢献を支える経営資源の一つとして人的資本を明確に示しています。「各国においてお客さまを万全にサポートできる量的な人的資本」と「保険領域を担う専門性ある人財」という2つの柱に関連する従業員情報を開示。また、サステナビリティレポートでは、ESG投資をはじめとする指標を公開するなかで、従業員構成、健康推進の取組なども公開しています。
参考:第一生命グループ
旭化成株式会社
旭化成の情報開示では、基本的な項目に加え、サステナビリティの取組を強調しています。同社では、サステナビリティの基本方針として「持続可能な社会への貢献による価値創出」「責任ある事業活動」「従業員の活躍の促進」の3つを定めるとともに、「持続的な企業価値向上」を重要な戦略に位置づけ、各種取り組みを推進。ESGデータのなかで、グループ従業員数や雇用形態別従業員数など、人的資本の情報を開示しています。
参考:ESGデータ|旭化成株式会社
オムロン株式会社
オムロン株式会社では、企業理念の実践にむけ連動する人材戦略を「リーダーの育成と登用」「多様で多才な人材の活躍」の2本柱で推進しています。また、独自の従業員エンゲージメントサーベイを導入し、自社の課題と状況をモニタリング。分析結果をもとに環境改善を図るといった取り組み内容を公開しています。10年後を見据えた人的資本強化に触れ、中長期的視野で企業価値向上を目指す人的資本のプロセスを可視化しています。
参考:企業理念経営を支える人財マネジメント | オムロン株式会社
人的資本の開示に関するまとめ
人的資本の情報を開示することで、さまざまなステークホルダーに自社の方向性や取組を発信することができます。今後、人的資本開示に取り組む企業は、開示するべき項目の優先順位を自社に照らし合わせて考えてみると共に、情報開示の一連の流れのなかに、人材戦略の見直しと改善を盛り込んでみましょう。
情報開示をゴールとするのではなく、社外のフィードバックを人材戦略に反映し、自社の課題を明確にする試みを継続することで、企業価値の持続的な向上につながるでしょう。